マレーシア特有の、肌にまとわりつくような湿った風が窓から吹き込む朝。 時刻は6時半。まだ薄暗いクアラルンプールの空の下で、私は今日もまた、床に膝をついています。
「あーあ、やっちゃった」
5歳の次男がテーブルの下に派手にぶちまけたパン。それを無心で拾い集める私の背後で、7歳の長男が「気持ち悪い……」と青い顔をしてうずくまっています。学校へ行く時間になると決まって襲ってくる、原因不明の嘔吐感です。
「大丈夫? 袋持ってくるから待ってて」 「ママ、うんちしたい」 「ちょっと待って、今お兄ちゃんが!」
怒号と汚物と湿気。これが、私の朝のルーティンです。
正直に言います。 InstagramやYouTubeで流れてくるような、青い空、プールサイドでカクテル、優雅にお手伝いさんに家事を任せる「キラキラしたマダム・ライフ」なんて、ここには1ミリもありません。
私がここで送っているのは、異国の地でワンオペ育児と格闘し、次々に降り掛かるトラブルをさばいていく、「生きるだけで精一杯」のサバイバル生活です。
はじめまして。 今日から、私たち親子の「マレーシア母子留学」の記録をブログに綴ることにしました、sakuraと言います。
これから、インターナショナルスクールの目玉が飛び出るような学費の話や、円安で悲鳴を上げている生活費の話も書いていくつもりです。でも、記念すべき最初の記事では、「なぜ、安全で清潔で、ご飯も美味しい日本を捨てて、母子だけで海を渡ったのか」という話をさせてください。
もし今、日本で子育てをしていて「何かが違う」「息が苦しい」と感じているお母さんがいたら。 この泥臭い記録が、ほんの少しの希望になるかもしれません。 あるいは、メディアが持ち上げる「教育移住ブーム」のキラキラした幻想に、現実という名の釘を刺すことになるかもしれません。
日本の「枠」が、私たちには狭すぎた
私たちが日本を出た理由は、よくあるポジティブな「グローバル人材を育てたい」といった海外志向だけではありません。 どちらかと言えば、「このまま日本にいたら、親子共倒れになる」という切迫した危機感でした。背中を押したのは希望ではなく、焦燥感だったのです。
一番の理由は、長男のことでした。 彼には少し、発達の特性があります。
好奇心が旺盛で、興味のあることには驚異的な集中力を見せる反面、じっとしているのが苦手。エネルギーの塊のような彼にとって、日本の公立小学校の「みんな一緒に、同じことを、同じペースで、静かに座って」というスタイルは、あまりに窮屈すぎました。
入学してすぐに始まった、学校からの電話。 着信画面に「小学校」の文字を見るたび、私の心臓は早鐘を打ちました。
「今日、〇〇くんが授業中に立ち歩きまして……」 「お母さんから、よく言い聞かせてください」
先生の言葉は正論です。でも、その正論が私を追い詰めました。 スーパーで騒ぐ息子に向けられる、周囲の冷ややかな視線。「躾(しつけ)がなっていない」という無言の圧力を肌で感じ、私は必死になって息子を叱り続けました。
「どうして座っていられないの!」 「普通にして! お願いだから!」
息子の個性を潰し、「普通」という型枠に無理やり押し込めようとする日々。 気がつけば、息子だけでなく、私自身も日本の整然としすぎた社会に、強烈なストレスを感じていました。
「ちゃんとしなきゃ」と思えば思うほど、空回る現実。 さらに当時、私個人的にも精神を削られるような出来事が重なりました。人間関係のトラブル、終わりの見えない学校での人間関係、誰にも相談できない孤独。 私たち親子は、社会のメインストリームから外れ、隅っこへ隅っこへと追いやられていくような感覚に陥っていたのです。
「このままここで生きていって、この子は、私は、幸せになれるのだろうか?」
日本の灰色の空を見上げながら(当時はそう見えてたと思います)、そう自問自答していた時。 「ここではないどこか」への扉を開いてくれたのは、夫でした。
「日本以外」を見てみたい夫と、マレーシアという選択
私の夫は、私とは対照的に、常に新しいことを追い求めるタイプです。 彼自身もまた、日本の画一的な教育制度や、閉塞感のある社会、そして「右へ倣え」のビジネス慣習に疑問を持っていました。
私が日々の生活で手一杯になり、視線が足元ばかりに向いていた時、彼はもっと遠くを見ていました。
「子供たちを、もっと広い世界で育てたい」 「日本以外の選択肢を、子供たちに見せてあげたい。それが親としてできる大事な仕事の一つじゃないか」
そんな夫の言葉は、疲れ切って硬くなっていた私の心に、ストンと落ちてきました。 日本から逃げたい私と、世界へ挑みたい夫。動機は違えど、見ている方向が一致した瞬間でした。
そして彼は、その行動力で、将来的に家族全員で海外生活を送るための基盤として、マレーシアでのビジネスの可能性を見つけてきたのです。 なぜマレーシアか。それは、ビザの取得しやすさ、教育水準の高さ・社会の多様性(マレー系、中国系、インド系が日々争いもなくお互いを認めながら暮らしている)、そして何より「これから伸びていく国のエネルギー」が、夫の肌に合ったからでしょう。
とはいえ、夫の仕事はまだ日本がベースです。 今は、夫は月に一回、日本とマレーシアを行き来し、私が5歳と7歳の怪獣二人を連れて先に生活を始める「母子留学」という形をとっています。
2年目突入。現実は「修羅場」の連続です
さて、ここからが現実の話です。 「海外に出ればすべて解決する」「環境を変えれば子供は変わる」。 ……なんて、そんな甘い話はありませんでした。
マレーシアに来て2年目。 2年目になればもっと楽になっている…そんなことを昨年は思っていたかもしれません。ただ現実の今の生活を一言で表すなら、「トラブルのデパート」です。
まず、お金。 来た当初と比べて、恐ろしい勢いで進む円安。日本の口座から生活費を引き出すたびに、目減りしていく資産に胃が痛くなります。スーパーで日本の納豆を買うとき、その値段(日本の3倍!)に毎回手が震えます。
そして、学校のこと。 インターナショナルスクールに入れば、長男の問題は魔法のように解決すると思っていました。 確かに、先生たちは彼の個性をポジティブに捉えてくれます。「彼はエネルギッシュで素晴らしいリーダーシップがある!」と。 のびのびと過ごせるようになったのは事実です。しかし、自由には責任が伴います。 言葉の壁、文化の違いによる誤解、そして「自由すぎる」がゆえの学校教育レベルについていくことの難しさ。 日本の学校とはまた違う種類の、「言葉が通じないゆえの疎外感」や「ルールのないストレス」を、彼は今、感じています。長男の嘔吐感は、そのサインかもしれません。
食事もそうです。 油っこい中華、スパイシーすぎるマレー料理。子供たちは結局、食べられるものが限られてしまう。食材調達に走り回る日々は日本と変わりません。
そして何より辛いのが、「夫がそばにいない」ことのメリットとデメリットです。
月に一度、夫が来る日は子供たちにとって「お祭り」です。パパは優しい、パパは楽しい。 でも、日常の泥臭い躾や、病気の看病、学校との英語でのやり取り、水漏れするコンドミニアムの修理依頼……それらすべてを背負うのは私です。 「いいとこ取り」に見える夫に、うらやましい気持ち(怒りに近い気持ちかも)を抱いたのは一度や二度ではありません。 高熱を出した長男が熱性けいれんを発症し現地の救急車を呼んで、現地のローカル病院に母子全員で入院した時は不安で「もう無理、日本に帰りたい」と声を上げて泣きました。
それでも、私たちはここにいる
それでも。 毎日トラブル続きで、生きているだけで精一杯。 鏡に映る自分は、日本にいた時よりも髪がボサボサで、シミも増えた気がします。
けれど不思議なことに、「日本に戻りたい」とは、強くは思わないのです。
なぜなら、このマレーシアという国には、圧倒的な「許容」があるから。 多民族国家であるここは、みんなが違って当たり前。 レストランで子供が騒いでも、店員さんがウィンクして飴をくれる。 英語が下手でも、誰も馬鹿にせず、一生懸命聞いてくれる。
ここでは、凸凹のある長男も、まだ英語がおぼつかない次男も、そして常にテンパって余裕のない私でさえも、 「あなたはあなたのままでいいんだよ(You are okay as you are.)」 と、社会全体から許されている気がするのです。
日本の「枠」からはみ出してしまった私たちを、この国は「そういう形なんだね」と、ただ受け入れてくれている。 その安心感が、今の私たちがここで生きる唯一の、そして最大の理由です。
最後に
このブログでは、留学エージェントが書くような「マレーシアのインターナショナルスクール事情」や「おすすめカフェ情報」といった綺麗な情報だけを書くつもりはありません。
30代・40代の母親が、異国の地で髪を振り乱し、汗と涙を流しながら戦う「リアルな母子留学」の記録です。
湯水のように消えていくお金の話。 学校選びの苦悩。 生活環境の汚さや不便さ。 そして、離れて暮らす夫との、綺麗事ではない葛藤。
すべて包み隠さず書いていきます。 私の恥も、失敗も、後悔も、すべてさらけ出すことで、今、日本のどこかで「ここじゃない」と息苦しさを感じている誰かの、小さな安息地になれば嬉しいです。
私たちのドタバタ劇が、あなたの日常に少しの笑いと、ほんの少しの勇気を届けられますように。 これから、どうぞよろしくお願いします。
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